「日本人をやめる」10の方法(1)

のっけから脱線するが、いま EXTREME の『Waiting for the Punchline』(1995)というアルバムを聴き直している。リリースは1995年だから、はじめて手に取りジャケットをしげしげと見つめたのは浪人生のころだった。EXTREME といえば2ndの『PORNOGRAFFITTI』(1990)収録の「More than Words」や「Hole Hearted」などのミドルチューンが有名であったが、3rdアルバムが振るわなかった。待ちに待った4thだったのだが、聞いてみて「なんかちがう・・・」と軽く失望したのを覚えている。その後、フロントマンのゲイリー・シェローンが脱退することでバンドは解散。それからは動向を追うこともなく、過去の思い出としてラックに積まれていたのだが、10年以上が経過したこのごろ、なんとなく聞いてみたのだ。意外や意外、これが良かったりする。とくにヌーノ・ベッテンコートの骨太な演奏が良い。『PORNOGRAFFITTI』のときのように技巧を駆使しとるやろという愉悦のようなものがなく、実直にプレーしているのがよろしい。つまり、ヌーノは変化を求めていたわけで、当時のボクはそういうヌーノの高邁な意思というものが実感できなかっただけなのかもしれない。おそらくこういう方向性の変化というものを、日本人はまず試みないだろうというところで、ようやく話が交錯する。挑戦しない日本人。じゃあ、挑戦的になればいいのではないか。「挑戦的」は「挑発的」につながるわけで、日本人の感性にはすこぶるそぐわない。しかし、日本人をやめるためには、あえて持ち手を変えなければならないだろう。『Number 768』(2010/12/09)も外国人指導者を語り手に、いかに挑戦し自立を勝ち取ることが重要かを訴えている。問題はその先になにがあるかだ。日本人をやめなくったっていまの暮らしが維持できるじゃないか。基底を刻むドラム音のように、猫も杓子も唱え続けるいまの世の中に嫌気がさしてないかということですよ。そういう挑戦しない生き方は面白いかどうかと聞かれれば「ふざけるな」と即答できてしまうひとたちには、はっきり言って生き難い以外のなにものでもないわけですよ。サンキュー・ヌーノ! これからは「日本人」をやめる方法について雑多な思い付きを書き連ねていきたいと思う。今日は風邪による腹痛で何度が気が遠くなったが、これも「日本人」気質のせいかと思うと、考えさせられる今日このごろである。

Waiting for the Punchline

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