「日本人をやめる」ための棚卸(1)

今日は ANNIHILATOR の『Set the World on Fire』(1993)を聞いている。ジェフ・ウォーターズのギタープレーは素晴らしく、彼がもし MEGADETH のギタリストになっていたらと思うとゾクゾクする。余談だが、このアルバムでドラムを叩いているマイク・マンジーニは昨日聞いていた EXTREME の『Waiting for the Punchline』(1995)のドラマーでもある。音楽を聴いていると、昔のことを映像として鮮明に思い出したりする。青山真治らの『青山真治阿部和重中原昌也シネコン!』(2004)で阿部和重も音楽がインスピレーションの惹起に効果をもっているとほのめかしているように、そのときに感じていたことまで付随していたりする。フラッシュバックなどというと心の病の専売特許のようだが、そうではあるまい。人間というのは体験をもとにしてしか現実を認められない。過去は必要である。なぜならば、そこに自分がいて、見て、聞いて、『体験』した事象たちが、それが『真実』かどうかはいまとなっては定かではないが、ある種の『事実』を突き付けてくるからだ。おそらく、ボクは『過去』なるものと訣別できないだろう。大それたことをしたわけでもないし、大発見をしたり大成功を収めたわけでもない。『過去』はワインコルクの味噌蔵臭い香りと一緒と思えるぐらいまで忘れ去られてはじめて、想像の俎上にのせるべきものだ。いま「日本人をやめる」決意をしているわけだが、『過去』は解体され、吟味される必要があるのだろうか? 大いにあるだろう。なけなしの個性なるものが、いったいどこから来たものなのか。おそらく、なんらかの要素を投影しているにちがいないのだ。照らし出す光源も気にはなるが、ライトアップされている部屋の模様を探らなければならないだろう。哲学者が言うところの perspective ってやつだ。そいつについても徐々にやっていく必要があるだろう。

Set the World on Fire

Set the World on Fire

青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!

青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!