年の瀬が来る。

年の瀬が迫ってきた。そう書いてはみたものの、時間の流れに起伏が感じられないというか、長く休めるなという印象しかない。仕事柄かもしれない。いわゆる「研究」を仕事にして9年という歳月がたった。実際に実験に手を染めたのが大学4回生のころからだから、12年も「生物学」という基盤の脆弱な学問領域に身を置いていることになる。もしかしたら、「生物学」といういかがわしい「研究」をしているから、切迫した時間管理を受けることなく、ダラダラと日々を過ごしてしまっているのかもしれない(これは当然悪い例だ。定量性にこだわる技術者もたくさんいるが、いかがわしい者は悲しいかな相当程度が低いのが「生物学」という学問領域の特徴だと思う)。正直なところ、勤めに出てこの10年間は本当に自分にとって意味のある時間を与えてくれたのだろうか、と疑念を抱くことが多くなった。手を抜いたというわけではないが、没入できない歯痒さというのがつねに憑きまとう毎日だ。それを言い訳にするつもりもないが、「世の中はバカと哲学者で満ち溢れた虚構の空間」(EXTREME の 'Stop The World' という曲の冒頭に歌われる歌詞)である。自分のバカさ加減に絶望し、世間の無責任さには諦観を覚える。思考回路に紛れ込んだ諦念というやつを、僕はいつもで抱え続けなきゃならないんだろう? かつて、そういう状態に陥ることを見透かしたかのように、ベテラン記者の知り合いから「真実を見た者は不幸な人生を歩むことになる」と意見されたことがある。大学3回生の秋のことだ。12年の隔てたいま思い返すと、当たっているようないないような、不思議な感覚になる。おそらく、12年前に覚えた違和感を総ざらい問題視して吟味する日々を送ることが正解だったのかもしれない。でも、事実として、ある意味「思考すること」をあらかた放棄してここまで来てしまった。それが許されるかどうかは知らないが、冷却期間として捉えるほかないように思う。ウィトゲンシュタインも一時論理哲学を捨てて教師や庭師として数年をやり過ごしたというし。もっとも、そういうからには、ウィトゲンシュタインとまではいかないまでも、なんらかの価値を見出せる成果を作らないと駄目だ。そういう努力をはじめるつもりだ。

III Sides to Every Story (Jewel Box)

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ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

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