沈思黙考

たしかに5倍働く必要あるかも。なん度も言及しているが、もう会社に勤めて10年になる。「研究者」という位置づけで、給料をもらい続けているのだ。「さて、来期はどうするか」と呟いても、だれも助けてくれない年齢に達したということだ。自分の仕事は自分で見極める。そのためには、5倍働かんとな・・・。しかし、そういうふうに考えることができたのも、慣れ合いの関係から脱却できたことによる。仕向けたのは上司なのかもしれないが、それを自分なりに受け入れたつもりだ。同僚の年配女性がいつもキョロキョロと周囲をうかがって振る舞うのを見ていると、会田雄次が『アーロン収容所』で監視役のイギリス人将校が一人で佇んでいるのを見て、「日本人はこういうふうに孤独になれない」という類の言及を思い出す。ちゃんと孤独に耐えられているだろうか? まだ不十分だ。

昨日、3つ年上の先輩と飲みながら、魅力がなくなってきたな、と感じてしまった。もともと回りくどい言い方の好きなひとだったのだが、そこから柔軟性やら可塑性やらが失われてはじめているのではないか、となんとなく思った。アーロン・エルキンズが『断崖の骨』の中でギデオン・オリヴァーの老齢に達した恩師がパブかどこかで若者と談笑しているのを見て「柔軟だ」とほめるシーンがふと思い出された。

だいぶ自分のことが見えはじめたように思う。もう少しの間だけ「自己言及」を続けてみよう。自分で自分を縛らないように注意しながら。

「自己」と「営為」との間に横たわる断層。この二つは堅い構造体として存在できうるように思われるのだが、断層を流れる「時流」とか「風潮」とかいうのは、そのうねりを起こすために多くの他者の思惑が絡むだけに、厄介である。おそらく「定義する」という知的な操作は無力だ。要素や因子が多すぎて、だれにも予測できない。そして、曲解や阿諛が入り混じることで、SFのようなでっち上げがさも正鵠を射た答弁のように罷り通ってしまう。現状理解はそんなところである。15年前の僕はそういった事態を追認することは罪だと考えていた。しかし、局面を打開するような発想を得ることはできなかった。おそらく現実を素描できたことを自画自讃し、悦に入っていただけのように思う。

いまならなにができるんだろう。とりあえず、「いま」と向き合う根気は少々身に着いたのではないか。そいつは実験が失敗する理由を突き詰める行為に欠かせない。様々な兆候どもを丹念に拾い集めれば、(たいしたことない)事件の核心的な部分に到達できてしまう。13年あまりの研究生活で得た最大の収穫は「投げ出さずに歩けば原因にたどり着く」感覚を触知できたことかもしれない。

しかし、正しいことを行うためには、狂いない技術、揺るぎない信念、惑いのない知性、そんなこんなが必要なのだろうか? そして、そのなかのひとつでも、僕が持ちうるのだろうか?

アーロン収容所 (中公文庫)

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断崖の骨 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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