意思の所在

一体なにがしたいのか? そんなことを考える身分なのか分からないが、止められないのだ、仕方がない。生産的な、創造的な、そんな生活がしたい。そんなふうに生きるためにはどうしたらいいのか、お決まりの哲学的な所作を取るのであれば、枚挙すればいいのだろうか? ただ、唯一分かっていることは、ここから逃げてはならない。いま、この地点から、なにかを紡ぎ出していかなければならない。意味深なことを託宣のようにひき並べて、おざなりにやり過ごすなんてことはしてはならない。結論なのか、よく分からないが、なんらかの言説を絞り出すのだ。救われたい? 分からない。でも、毎日が、目が覚めるとまるで当然のように、そこに来ているようなのだ。目的がある? それもよく分からない。歩き出すのに目的なんてもんがいるような性質でもない。いつも諦観や虚無に肺腑を抉られる。それでも生きている。時間は進んでいる。思う。考える。思考する。試行する。志向する。結局のところ、僕を乗せて時間は進んでいく。意味だ。意味。その意味なるものを掴みあぐねているのだ。かといって、かつての選択が間違ったせいで、道に迷っているわけではない。どこへ行っても途切れているのだ。しかし、袋小路とはかぎらない、この世界は。予感でしかないのだが。

11月に健康診断を受けたのだが、聞き取りといった位置づけで、保険士さんと話した。8カ月程度かけて体重を 18 kg 程度減らしたのだが、72 kg 前後まで戻したほうが調子が良い、大学生のころの体重だと言うと、だいたいそのころ内臓機能が体系だって確立されるので、それぐらいがちょうど良いのだという話になった。なるほど。三つ子の魂百までというが、青春時代の生活も運命のようにその後の人生に影を落とすということか。僕自身の思考はつねに大学生のころに引き戻されているし、そういう自分に関して、なんというか、困った感じがしないわけでもなく、そうなってまうんやからしょーがないやんけ、というのが本音だ。MR. BIG の「Anything for You」を聴きながら、そう思った。

Mr Big

Mr Big